No.18, No.17, No.16, No.15, No.14, No.13, No.12[7件]
春の光が窓から差し込み、合宿施設の舎内も春の陽気に包まれていた。柔らかい日差しを浴びながら宿舎の中を歩いていると、葉緑体もないのに光合成をしている心地がした。あったかいなあ、という自分のつぶやきがぽつりと落ちた。辺りに誰も見当たらなかったが、代わりに遠くの方から微かにボールの跳ねる音がする。狼凰杯まで残り数日。ヒーローのみんなはチームに別れて練習に励んでいるようだ。俺といえば「息抜きも必要」と自分に言い聞かせて、ずっと座りっぱなしだった自席からそそくさと腰を上げたところだった。こんな激務が舞い込んでくる予定はなかったが、ちょっとしたミスが原因で気づいたら気の遠くなるような作業量の仕事がこちらへ回ってきたのだった。狼凰杯まで後数日ということもあり、一刻も早くこの仕事は片付けなければいけないし、できればそうしたいとは思っている。あくまでこの休息は効率のためなのだ。あくまでも。
廊下をそのまま進み、なんとなく目についた食堂の扉をあける。今日は寮母さんも早上がりの為か、部屋の中はしんと静まり返っていた。近くにあった椅子に座り、そのまま机に伏せてしまう。春の陽気のせいなのか、疲労で脳の処理速度が落ちているせいなのか、頭がいつもよりもふわふわと軽く、正常な判断ができそうにもない。部屋で寝た方がよかったかもしれないなと思い直す。ただ動く気にもなれなかったので、身体を起こしてそのまま背もたれに預けた。
「春だなあ」
そうしてまた一言呟いたとき、ガチャと扉の開く音がする。まずい、と思わず立ち上がって振り返れば、そこに立っているのは練習着を着た佐海くんだった。
「あれ、指揮官さん?」
休憩ですか? とにこやかに声をかける姿に安堵して、へなへなとまた椅子に腰を落ち着ける。大丈夫ですか!? とこちらへかけてきて覗き込む顔が、思った以上に焦りが含んでいて、悪いな、という気持ちになった。来たのが研究員じゃなくてよかったと思った瞬間に力が抜けたことは、恥ずかしいので黙っておくことにする。
「うん、大丈夫……ちょっとびっくりして、」
「いえ、こちらこそすみません……! 俺、まさか指揮官さんがいると思わなくて」
「そりゃあ当然だよ、執務室にいるべきだし……」
ははは、と乾いた笑いが思わず出てしまう。ちら、と佐海くんの方を向けば、また忙しそうですね、と困ったように笑っていた。
「佐海くんは、またマネージャー業務かい」
「そんな感じです。ていうか、浅桐さんまたどっか行っちゃって」
「はは、まあ、いつもどおりか」
「そうですね、不本意ですけど」
佐海くんはそういいながらくすくすと笑っていた。その所作に何か既視感のようなものを覚えたが、働かない頭では答えを導き出すことも不可能で、ただ漠然と「かわいいな」という言葉が浮かんでは消えた。佐海くんには以前、選手兼マネージャーだねなんて軽い気持ちで言っていたが、どうやら彼は順調にその役目をこなしているようだった。彼はキッチンでくるくると動き回り、昼食の支度を着々と進めていく。ふと時計を見上げれば、長い針と短い針が十二の文字で重なるところだった。ふと立ち上がり、キッチンのそばまで寄ろうとしたところ佐海くんがこちらを向いて、今日は大丈夫ですから座っててください、と言った。俺はそのままゆっくりとした動きで着席し、佐海くんの働く姿を眺めることにする。
「一人で大変じゃない?」
「俺は平気です! 指揮官さん、なんだかお疲れみたいだし……あ!」
佐海くんはそうして声を上げたかと思えば、冷蔵庫から数個容器を取り出して、パタパタとこちらへと持ってくる。ぱちりと瞬きを数回繰り返せば、佐海くんはにっこりと笑って、指揮官さんに差し入れです! と言った。
「えっ、でも、みんなの分は」
「別に用意してありますよ。俺、この前手伝ってもらったし」
「いや、あんなの大したことじゃ」
「……指揮官さん」
俺が作りたくて作ったんです。そういって佐海くんは目を細めて笑った。
風も吹いていないのにふわりとした柔らかい心地が肌を撫でた気がして、ああそうかと思い至る。既視感はこれだったのだ。さっきまで浴びていた陽の光のような、そういうもの。
「佐海くんは春みたいだな」
そうすると佐海くんが頭にたくさんの疑問符を浮かべているので、思わずくすくすと笑って、なんでもないよ、と言った。
4月 18, 2020
廊下をそのまま進み、なんとなく目についた食堂の扉をあける。今日は寮母さんも早上がりの為か、部屋の中はしんと静まり返っていた。近くにあった椅子に座り、そのまま机に伏せてしまう。春の陽気のせいなのか、疲労で脳の処理速度が落ちているせいなのか、頭がいつもよりもふわふわと軽く、正常な判断ができそうにもない。部屋で寝た方がよかったかもしれないなと思い直す。ただ動く気にもなれなかったので、身体を起こしてそのまま背もたれに預けた。
「春だなあ」
そうしてまた一言呟いたとき、ガチャと扉の開く音がする。まずい、と思わず立ち上がって振り返れば、そこに立っているのは練習着を着た佐海くんだった。
「あれ、指揮官さん?」
休憩ですか? とにこやかに声をかける姿に安堵して、へなへなとまた椅子に腰を落ち着ける。大丈夫ですか!? とこちらへかけてきて覗き込む顔が、思った以上に焦りが含んでいて、悪いな、という気持ちになった。来たのが研究員じゃなくてよかったと思った瞬間に力が抜けたことは、恥ずかしいので黙っておくことにする。
「うん、大丈夫……ちょっとびっくりして、」
「いえ、こちらこそすみません……! 俺、まさか指揮官さんがいると思わなくて」
「そりゃあ当然だよ、執務室にいるべきだし……」
ははは、と乾いた笑いが思わず出てしまう。ちら、と佐海くんの方を向けば、また忙しそうですね、と困ったように笑っていた。
「佐海くんは、またマネージャー業務かい」
「そんな感じです。ていうか、浅桐さんまたどっか行っちゃって」
「はは、まあ、いつもどおりか」
「そうですね、不本意ですけど」
佐海くんはそういいながらくすくすと笑っていた。その所作に何か既視感のようなものを覚えたが、働かない頭では答えを導き出すことも不可能で、ただ漠然と「かわいいな」という言葉が浮かんでは消えた。佐海くんには以前、選手兼マネージャーだねなんて軽い気持ちで言っていたが、どうやら彼は順調にその役目をこなしているようだった。彼はキッチンでくるくると動き回り、昼食の支度を着々と進めていく。ふと時計を見上げれば、長い針と短い針が十二の文字で重なるところだった。ふと立ち上がり、キッチンのそばまで寄ろうとしたところ佐海くんがこちらを向いて、今日は大丈夫ですから座っててください、と言った。俺はそのままゆっくりとした動きで着席し、佐海くんの働く姿を眺めることにする。
「一人で大変じゃない?」
「俺は平気です! 指揮官さん、なんだかお疲れみたいだし……あ!」
佐海くんはそうして声を上げたかと思えば、冷蔵庫から数個容器を取り出して、パタパタとこちらへと持ってくる。ぱちりと瞬きを数回繰り返せば、佐海くんはにっこりと笑って、指揮官さんに差し入れです! と言った。
「えっ、でも、みんなの分は」
「別に用意してありますよ。俺、この前手伝ってもらったし」
「いや、あんなの大したことじゃ」
「……指揮官さん」
俺が作りたくて作ったんです。そういって佐海くんは目を細めて笑った。
風も吹いていないのにふわりとした柔らかい心地が肌を撫でた気がして、ああそうかと思い至る。既視感はこれだったのだ。さっきまで浴びていた陽の光のような、そういうもの。
「佐海くんは春みたいだな」
そうすると佐海くんが頭にたくさんの疑問符を浮かべているので、思わずくすくすと笑って、なんでもないよ、と言った。
4月 18, 2020
ソファで寝ていたところを、俺の顔を覗くようにして、佐海くんにじっと見つめられていた。目をあければ佐海くんの顔があってびっくりしたものだ。起こしちゃいましたか、と佐海くんは言った。別に佐海くんに起こされて起きたわけではなかったので、いいや、と返す。しかしどうしたことか、まるで逃さないとでも言うように俺の上から動こうとしない佐海くんに、俺は不思議に思った。
「佐海くん、どうしたの」
そうやって尋ねれば、佐海くんは何やらなにかいいたそうにして、口を開いたり閉じたりしている。視線を逸らされたので、いいあぐねていることは理解できた。急かす理由もないのでそのままにしてみる。数秒ほどそれを繰り返し、ようやく視線を合わせて、おずおずと口を開き、音を発していく。
「指揮官さんは、俺とその、そういうことしたいって思わないんですか」
ぽかん、としてしまったが、現実に引き戻されて、彼に言う。
「そういうことって?」
「そりゃあ、その、そういう、……え、エロいこととか」
「エロいこと」
自分で反芻した五文字をゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。なるほど、エロいこと。
俺たちは事実として好き合っている。これは恋とかそういう類のものであったが、キスや抱きしめるという行為をしたとしても、不思議なことにあまり「エロい」とかそういったことを考えようと思わなかった。断じて彼に魅力がないわけではない。しかし、現状でその意識が生まれなかったのも事実だった。
「あんまり考えたことなかったな」
そう素直に言えば、明らかにわかるように落ち込んでしまった。フォローするように彼に言う。
「別に、佐海くんに魅力がないわけじゃないよ」
「でも、そういうことしたいわけじゃないんですよね」
「うーん、考えつかなかっただけ、というか」
「じゃあ、今は、そう思いますか」
なるほど、そうくるか。
「佐海くんは、俺とエロいことしたいの?」
そう尋ねると、目に見えてわかるように顔を赤く染めた。今日も相変わらずの百面相を発揮している。佐海くんもそういうことを考えたりするのかと思ったが、事実として彼は思春期の子供なのだから、当然といえば当然かもしれない。
「そ、そりゃあ」
「したいんだ」
「からかってるんですか!?」
「少しだけね」
子供扱いされたことにむくれているのか、佐海くんは拗ねたような顔をして、俺の視界から姿を消した。隠れていた蛍光灯の灯りが眩しくて、思わず手で視界を遮る。暗い視界の中で、光のような物がちかちかと光っているのをしばらく眺めた。
「指揮官さん」
今佐海くんがどんな顔をしているのか俺にはさっぱりわからなかったが、声のトーンで随分と落ち込んでいるようなことは伺えた。彼は素直すぎるきらいがある。
「俺のこと、子供扱いしてますよね」
「そりゃあ、俺からみたら佐海くんは子供だよ」
「ずっと、そうなんですか」
「……そうかもしれないね」
ひゅ、と息を飲む音がした、気がした。
身体を起こすと、佐海くんは不安そうな顔でこちらを見つめていた。なにも不安に思うことはないのに。
「佐海くん」
「はい」
「俺は別に、佐海くんのことを嫌いなわけじゃないよ」
「……わかってます。ごめんなさい」
「謝ることじゃないって」
俯いてしまう佐海くんの手を取って、大丈夫だというように優しく握ってやった。珍しくひんやりとした手のひらに、ぼんやりとした熱を帯びた手を重ねれば、触れたところから体温がなじんで、ゆっくりほどけていくようだった。
「ほんとはね、こういうかんたんなことだって、奇跡みたいに思うよ」
「……どういうことですか?」
「そもそも好き合ってるだけでも夢みたいで、今でもかなり満足してるってこと」
俺の顔をびっくりしたように見て、小さな声で、そうなんですか、と言った。
「そういうこと、俺としたいって思うんだ」
「……幻滅しましたか」
「ううん、全然」
「本当に?」
佐海くんはそういって顔をあげては、またこちらを見つめている。瞳の奥がふるりと震えた気がした。覆った膜が落ちてしまいそうで、思わず手で拭いそうになる。目元まで指を這わせたときに、泣いてない、です、と、とぎれとぎれに彼は言った。
「本当だよ」
「……俺、指揮官さんのこと、ずっとすきです。だから、」
だから、俺がちゃんと大人になったら。
佐海くんはそこで言葉をつまらせてしまった。さっきよりも目をほそめて、こちらを見つめていた。赤くなった頬は温かさを増して、触れた手のひらからじわりと伝わってくる。ゆっくり落とすように、うん、と返す。
「きっとそのときは、やさしくさせてね」
そのとき彼の瞳から、ついにほたりと落ちてしまった。
3月 07, 2020
「佐海くん、どうしたの」
そうやって尋ねれば、佐海くんは何やらなにかいいたそうにして、口を開いたり閉じたりしている。視線を逸らされたので、いいあぐねていることは理解できた。急かす理由もないのでそのままにしてみる。数秒ほどそれを繰り返し、ようやく視線を合わせて、おずおずと口を開き、音を発していく。
「指揮官さんは、俺とその、そういうことしたいって思わないんですか」
ぽかん、としてしまったが、現実に引き戻されて、彼に言う。
「そういうことって?」
「そりゃあ、その、そういう、……え、エロいこととか」
「エロいこと」
自分で反芻した五文字をゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。なるほど、エロいこと。
俺たちは事実として好き合っている。これは恋とかそういう類のものであったが、キスや抱きしめるという行為をしたとしても、不思議なことにあまり「エロい」とかそういったことを考えようと思わなかった。断じて彼に魅力がないわけではない。しかし、現状でその意識が生まれなかったのも事実だった。
「あんまり考えたことなかったな」
そう素直に言えば、明らかにわかるように落ち込んでしまった。フォローするように彼に言う。
「別に、佐海くんに魅力がないわけじゃないよ」
「でも、そういうことしたいわけじゃないんですよね」
「うーん、考えつかなかっただけ、というか」
「じゃあ、今は、そう思いますか」
なるほど、そうくるか。
「佐海くんは、俺とエロいことしたいの?」
そう尋ねると、目に見えてわかるように顔を赤く染めた。今日も相変わらずの百面相を発揮している。佐海くんもそういうことを考えたりするのかと思ったが、事実として彼は思春期の子供なのだから、当然といえば当然かもしれない。
「そ、そりゃあ」
「したいんだ」
「からかってるんですか!?」
「少しだけね」
子供扱いされたことにむくれているのか、佐海くんは拗ねたような顔をして、俺の視界から姿を消した。隠れていた蛍光灯の灯りが眩しくて、思わず手で視界を遮る。暗い視界の中で、光のような物がちかちかと光っているのをしばらく眺めた。
「指揮官さん」
今佐海くんがどんな顔をしているのか俺にはさっぱりわからなかったが、声のトーンで随分と落ち込んでいるようなことは伺えた。彼は素直すぎるきらいがある。
「俺のこと、子供扱いしてますよね」
「そりゃあ、俺からみたら佐海くんは子供だよ」
「ずっと、そうなんですか」
「……そうかもしれないね」
ひゅ、と息を飲む音がした、気がした。
身体を起こすと、佐海くんは不安そうな顔でこちらを見つめていた。なにも不安に思うことはないのに。
「佐海くん」
「はい」
「俺は別に、佐海くんのことを嫌いなわけじゃないよ」
「……わかってます。ごめんなさい」
「謝ることじゃないって」
俯いてしまう佐海くんの手を取って、大丈夫だというように優しく握ってやった。珍しくひんやりとした手のひらに、ぼんやりとした熱を帯びた手を重ねれば、触れたところから体温がなじんで、ゆっくりほどけていくようだった。
「ほんとはね、こういうかんたんなことだって、奇跡みたいに思うよ」
「……どういうことですか?」
「そもそも好き合ってるだけでも夢みたいで、今でもかなり満足してるってこと」
俺の顔をびっくりしたように見て、小さな声で、そうなんですか、と言った。
「そういうこと、俺としたいって思うんだ」
「……幻滅しましたか」
「ううん、全然」
「本当に?」
佐海くんはそういって顔をあげては、またこちらを見つめている。瞳の奥がふるりと震えた気がした。覆った膜が落ちてしまいそうで、思わず手で拭いそうになる。目元まで指を這わせたときに、泣いてない、です、と、とぎれとぎれに彼は言った。
「本当だよ」
「……俺、指揮官さんのこと、ずっとすきです。だから、」
だから、俺がちゃんと大人になったら。
佐海くんはそこで言葉をつまらせてしまった。さっきよりも目をほそめて、こちらを見つめていた。赤くなった頬は温かさを増して、触れた手のひらからじわりと伝わってくる。ゆっくり落とすように、うん、と返す。
「きっとそのときは、やさしくさせてね」
そのとき彼の瞳から、ついにほたりと落ちてしまった。
3月 07, 2020
幼馴染の晶(あきら)が死んでから三年が経った。交通事故で、それはもう、呆気なく、死んでしまったらしい。らしいというのは、僕はその話を、知人から伝聞で聞いたからだった。葬儀も、親戚間で慎ましく行われたのだそうだ。その話を聞いた時、あまりに信じられなくて、ふうん、そうなんだ、と、中身のない返事をしてしまったのを、未だに覚えている。
僕は晶と幼馴染でとても仲がよかったけれど、晶が死んでしまう二年前に、僕は引っ越しをしてしまっていた。高校に上がってすぐのことで、親の転勤が理由だった。連絡するから、といって連絡をし続けたのは、長くて二ヶ月ほどだったように思う。徐々に連絡は途絶えた。僕は引越し先で新しいコミュニティを築き上げていたし、晶も晶で、きっと高校で友人ができたのだろうと思っていた。
そして僕が、晶が死んだことを知ったのは、大学一年の夏頃のことだった。都内の大学へと進学した僕は、奇跡的に、中学の同級生と再会したのだ。引っ越す前の高校でも、彼は一緒だったため、比較的仲が良い友人の一人だった。
「なあ、お前さあ」
七月の、暑さが日に日に増してきた日のことだったと思う。彼は本当に、言いづらそうに、口を重々しく開いた。イズミが死んだの、知ってるか。いずみ、といわれて、一瞬誰のことだかわからなかった。ぽかんとしていたら、お前の幼馴染の、ほら、と言われて、そこでようやくわかったのだった。出水、晶。それが晶の名前だった。そして、思った以上にあっさりした返事をした僕に、お前って結構淡白なんだな、そういうところ、と言ってのけたのだった。
「ただいまー」
静かな部屋に一声かける。靴を脱いで部屋に上がり、荷物をおろしてベッドへと寝転んだ。今日はもう何もしたくない、このまま寝てしまおうか、と思っていたら、ドアが開く音がした。
「帰ってきて早々におやすみなんて、珍しいね」
「疲れたんだよ、今日は」
「だからといって、なんにも食べないのもまずいんじゃない」
「確かに。おにぎり作ってよ」
「できたらそうしてるよ」
そうして、困ったように目の前の男は笑った。
「そういえば、お前が死んでから三年が経ったね」
まだ成仏しないの? そう尋ねると、ひどいなあ、でも、その通りだ、とまた困ったような笑顔を零した。
僕の部屋には、幽霊の晶が住み着いていた。
晶に再会したのは大学一年の春のことだった。春の木漏れ日が差し込んでい て、日向へ行くと、微かに暖かい空気が肌を撫でたのが心地良い、そんな日だった。大学進学にあたって僕は一人暮らしをはじめていて、散策がてらふらふらと近所を歩いていた。そのとき、大きな桜の木が立っている公園を見つけたのだ。キレイだなあと思いながら、ぼう、と立っていた。そのときだった。誰かが僕の名前を呼んだ声が、かすかに聞こえたのは。
「久しぶりだね」
振り返った僕に、そう投げかけてきたのは、幼馴染の晶の姿だった。僕はびっくりして、どうして、と言ったら、この辺に住むことになったんだ、と彼は言った。なんだか懐かしい気持ちと、嬉しさがこみ上げた僕は、いつも以上に口がまわって仕方がなかった。相手が晶だったというのもあると思う。僕たちはたくさんのことを話した。そうしているうちにあっという間に時間が経っていて、名残惜しい気持ちを押し込めて、さよならをした。
「また会おうよ。この木の下で」
別れの間際、晶はそういった。いつ暇だとか、そういうことを聞きしそびれてしまったな、と僕は思ったけど、近所で会えるならまあいいか、と、ふわふわとした気持ちで家路を歩いていた。
そのあと、何度か公園に出向いて、晶が目の前に現れたのは二週間のうち五度くらいだったと思う。晶が幽霊だとわかった今だから思うが、会えた日は周りに人が誰一人としていなかった。晶なりの配慮だったのかもしれない。七月に言われて驚けなかったのは、四月の時点で晶と顔を合わせていて、何より、信じられなさすぎて、あんな反応になってしまったのだ。普通再会したら死んでるなんて思わない。後日晶に会った時、お前死んでるの、と聞いた。そのときはじめて、晶に影がないに気づいたのだった。
「なあ美穂」
「なあに~。あ、これ美味しい」
今日は四限の後、彼女の美穂と落ち合う約束をしていた。最近忙しくて全然話す機会もなかったので、暇な時間を聞いて会うことになったのだ。てきとうなファストフード店に入り、てきとうに注文して空いてる席についた。そして今、単価百円ほどの期間限定商品を口にして美穂は幸せそうにしている。そんな様子をみて、彼女がえらく単純なように思えた。
「もし、知り合いの幽霊が何年も自分の近くにまとわりついてたらどうする」
「え、何? 怖い話?」
「雑談。怖くない」
「既に前提が怖いじゃん……」
私怖い話ダメなんだけど、とかなんとかいいながら、甘ったるいパイを口に含んだ。歯を差し込むとドロドロと中のチョコが端から出てきて、ぼとぼとと落ちる。食べるの下手すぎ、といえば、いやこれ難しいんだって、と言ってパッケージについたチョコを舐め取った。
「てかそのユーレイ、怨霊とかじゃないの?」
「生前仲が良かった場合は?」
「えー、そりゃあ、未練とか……」
「未練」
「そうそう。告白できなかったー、とかさあ」
あ、そう考えるとちょっとロマンチックかもね、いや、でもそれでメンヘラだったら最悪か。そういいながら残りのパイを食べ終えてしまう。僕は買ったポテトに全く手をつけていなかったので、買った状態のまま、完全に冷めきってしまっていた。食べないなら頂戴。そういって手を伸ばす美穂のことなんか正直今どうでもよくて、さっき美穂がいった言葉に頭を支配されていた。
「未練?」
「そうだよ、お前全く成仏しないじゃん」
なんか未練タラタラだからずっと居座ってんじゃないのかと思って。
そうやって言えば、成仏させたい? と聞いてくる。そりゃ成仏したほうが良いに決まっている。幽霊などはこの世に居ないほうがいい。
「俺に未練はないよ」
「じゃあなんでこの部屋に居座ってるんだよ」
段々とイライラして、棘のある言い方になってしまう。すると晶はこちらを向いて、はっきりと言った。
「未練があるのは、そっちなんじゃないの?」
どきり、とした。そのとおりだった。未練があるのは、晶ではなくて僕で、晶を引き寄せてしまったのはきっと僕なんだろうと思う。そうしてここに縛り付けているのも。僕は晶が好きだった。あのとき過去に連絡が途絶えたのは、晶を忘れられるいいチャンスだと思ったからだった。だけど、結局忘れられなかったし、かといって、その後の連絡のとり方を忘れてしまっていた。酷く緊張していたのだと思う。もう少し早くに、連絡をしておけばよかったと後悔した。だから春に会えて嬉しかったのだ。でもこれじゃあ、意味がないじゃないか。
「早く成仏させてくれよ」
晶は、笑っていた。
11月 29, 2020
僕は晶と幼馴染でとても仲がよかったけれど、晶が死んでしまう二年前に、僕は引っ越しをしてしまっていた。高校に上がってすぐのことで、親の転勤が理由だった。連絡するから、といって連絡をし続けたのは、長くて二ヶ月ほどだったように思う。徐々に連絡は途絶えた。僕は引越し先で新しいコミュニティを築き上げていたし、晶も晶で、きっと高校で友人ができたのだろうと思っていた。
そして僕が、晶が死んだことを知ったのは、大学一年の夏頃のことだった。都内の大学へと進学した僕は、奇跡的に、中学の同級生と再会したのだ。引っ越す前の高校でも、彼は一緒だったため、比較的仲が良い友人の一人だった。
「なあ、お前さあ」
七月の、暑さが日に日に増してきた日のことだったと思う。彼は本当に、言いづらそうに、口を重々しく開いた。イズミが死んだの、知ってるか。いずみ、といわれて、一瞬誰のことだかわからなかった。ぽかんとしていたら、お前の幼馴染の、ほら、と言われて、そこでようやくわかったのだった。出水、晶。それが晶の名前だった。そして、思った以上にあっさりした返事をした僕に、お前って結構淡白なんだな、そういうところ、と言ってのけたのだった。
「ただいまー」
静かな部屋に一声かける。靴を脱いで部屋に上がり、荷物をおろしてベッドへと寝転んだ。今日はもう何もしたくない、このまま寝てしまおうか、と思っていたら、ドアが開く音がした。
「帰ってきて早々におやすみなんて、珍しいね」
「疲れたんだよ、今日は」
「だからといって、なんにも食べないのもまずいんじゃない」
「確かに。おにぎり作ってよ」
「できたらそうしてるよ」
そうして、困ったように目の前の男は笑った。
「そういえば、お前が死んでから三年が経ったね」
まだ成仏しないの? そう尋ねると、ひどいなあ、でも、その通りだ、とまた困ったような笑顔を零した。
僕の部屋には、幽霊の晶が住み着いていた。
晶に再会したのは大学一年の春のことだった。春の木漏れ日が差し込んでい て、日向へ行くと、微かに暖かい空気が肌を撫でたのが心地良い、そんな日だった。大学進学にあたって僕は一人暮らしをはじめていて、散策がてらふらふらと近所を歩いていた。そのとき、大きな桜の木が立っている公園を見つけたのだ。キレイだなあと思いながら、ぼう、と立っていた。そのときだった。誰かが僕の名前を呼んだ声が、かすかに聞こえたのは。
「久しぶりだね」
振り返った僕に、そう投げかけてきたのは、幼馴染の晶の姿だった。僕はびっくりして、どうして、と言ったら、この辺に住むことになったんだ、と彼は言った。なんだか懐かしい気持ちと、嬉しさがこみ上げた僕は、いつも以上に口がまわって仕方がなかった。相手が晶だったというのもあると思う。僕たちはたくさんのことを話した。そうしているうちにあっという間に時間が経っていて、名残惜しい気持ちを押し込めて、さよならをした。
「また会おうよ。この木の下で」
別れの間際、晶はそういった。いつ暇だとか、そういうことを聞きしそびれてしまったな、と僕は思ったけど、近所で会えるならまあいいか、と、ふわふわとした気持ちで家路を歩いていた。
そのあと、何度か公園に出向いて、晶が目の前に現れたのは二週間のうち五度くらいだったと思う。晶が幽霊だとわかった今だから思うが、会えた日は周りに人が誰一人としていなかった。晶なりの配慮だったのかもしれない。七月に言われて驚けなかったのは、四月の時点で晶と顔を合わせていて、何より、信じられなさすぎて、あんな反応になってしまったのだ。普通再会したら死んでるなんて思わない。後日晶に会った時、お前死んでるの、と聞いた。そのときはじめて、晶に影がないに気づいたのだった。
「なあ美穂」
「なあに~。あ、これ美味しい」
今日は四限の後、彼女の美穂と落ち合う約束をしていた。最近忙しくて全然話す機会もなかったので、暇な時間を聞いて会うことになったのだ。てきとうなファストフード店に入り、てきとうに注文して空いてる席についた。そして今、単価百円ほどの期間限定商品を口にして美穂は幸せそうにしている。そんな様子をみて、彼女がえらく単純なように思えた。
「もし、知り合いの幽霊が何年も自分の近くにまとわりついてたらどうする」
「え、何? 怖い話?」
「雑談。怖くない」
「既に前提が怖いじゃん……」
私怖い話ダメなんだけど、とかなんとかいいながら、甘ったるいパイを口に含んだ。歯を差し込むとドロドロと中のチョコが端から出てきて、ぼとぼとと落ちる。食べるの下手すぎ、といえば、いやこれ難しいんだって、と言ってパッケージについたチョコを舐め取った。
「てかそのユーレイ、怨霊とかじゃないの?」
「生前仲が良かった場合は?」
「えー、そりゃあ、未練とか……」
「未練」
「そうそう。告白できなかったー、とかさあ」
あ、そう考えるとちょっとロマンチックかもね、いや、でもそれでメンヘラだったら最悪か。そういいながら残りのパイを食べ終えてしまう。僕は買ったポテトに全く手をつけていなかったので、買った状態のまま、完全に冷めきってしまっていた。食べないなら頂戴。そういって手を伸ばす美穂のことなんか正直今どうでもよくて、さっき美穂がいった言葉に頭を支配されていた。
「未練?」
「そうだよ、お前全く成仏しないじゃん」
なんか未練タラタラだからずっと居座ってんじゃないのかと思って。
そうやって言えば、成仏させたい? と聞いてくる。そりゃ成仏したほうが良いに決まっている。幽霊などはこの世に居ないほうがいい。
「俺に未練はないよ」
「じゃあなんでこの部屋に居座ってるんだよ」
段々とイライラして、棘のある言い方になってしまう。すると晶はこちらを向いて、はっきりと言った。
「未練があるのは、そっちなんじゃないの?」
どきり、とした。そのとおりだった。未練があるのは、晶ではなくて僕で、晶を引き寄せてしまったのはきっと僕なんだろうと思う。そうしてここに縛り付けているのも。僕は晶が好きだった。あのとき過去に連絡が途絶えたのは、晶を忘れられるいいチャンスだと思ったからだった。だけど、結局忘れられなかったし、かといって、その後の連絡のとり方を忘れてしまっていた。酷く緊張していたのだと思う。もう少し早くに、連絡をしておけばよかったと後悔した。だから春に会えて嬉しかったのだ。でもこれじゃあ、意味がないじゃないか。
「早く成仏させてくれよ」
晶は、笑っていた。
11月 29, 2020
「わーーっ!」
「うわあっ」
寮内の一部屋へと入ろうとした途端、中から突如として放たれた大きな声に驚いて扉の外へうっかり逃げてしまう。すると、し、指揮官さん!? と佐海くんの驚いたような声が中から聞こえてきた。入っても平気か聞くと、歯切れ悪く答える側で、いいじゃん! 指揮官さんにも見てもらいなよ、と倫理くんの声も聞こえてきて、似合ってるから大丈夫、それはそれで問題だろ、とあれやこれやと会話が次々と飛び交った。どうやら中にいるのは一年生らしい。
「本当に入って平気?」
「ああ、えっと、まあ、平気です」
「ごめん、すぐ出るから……わあ」
中に入れば、女制服を身に着けた佐海くんが他の子に囲まれて、どうにも居たたまれないような面持ちでそこに立っていた。
「文化祭で着るの?」
「本当は良くん、着る予定なかったんですけど、一着余って勿体ないからって押し付けられちゃったみたいで……」
「本当は嫌だったんですけど、断りきれなかったんです」
「いいじゃん、ボクだってやったよ? 灰被り」
「全っ然、よくない」
当の佐海くんは本当に嫌みたいで、短い制服のスカートを握りしめていた。何より一人で試着してしまおうと思っていたところ、続々とこの部屋に人が集まってしまい、この有様らしい。実に災難な話である。佐海くんの為にも用事を済ませて部屋を出てあげよう、と思っていると、指揮官サンはどう思う? と尋ねられた。
「え、何が」
「何がって、佐海ちゃんの女装だよ! 似合ってるとか似合ってないとかあるでしょ」
「えっ、ああ……」
「指揮官さん、その、無理しなくていいですから……おい北村!」
「ええー、そこは佐海ちゃん的にも気になるところじゃないの?」
「なっ、ばっ」
「あはは、佐海くん、顔真っ赤だね」
光希くんに追い打ちをかけられた佐海くんは、完全に口を閉ざしてしまっていた。光希くんのそれは悪気がないから、正直たちが悪いのだ。だから佐海くんは、それをわかった上で何も言えなくなってしまったのだろう。完全にこの場の収集がつかなくなっているのは目に見えてわかることなので、いい加減に切り口を見いださなければならない。するとそこに、遠くから頼城くんが大きな声で霧谷くんを呼ぶ声が響いてきた。う、と酷く嫌そうな顔をした霧谷くんは、渋々といった様子で扉の前に向かっていく。
「紫暮にまで見られたら、多分、もっと面倒くさくなる」
指揮官サン、あとはなんとかして。そう言って扉の先へ向かっていくのを見送って、はてどうしたものかと考える。ひとまず佐海くんが着替えられるように誘導してやらねばならない。丁度話も途切れているのでそのまま着替えることを提案してやれば、ほっとしたように、そうさせてもらいます、と佐海くんは言った。倫理くんはつまらなそうにしていたけど、これ以上は佐海くんが少し可哀想だと思ったので、先程頂いたお菓子で勘弁頂くことにする。
「それじゃあ佐海くん、俺たち先に出てるから」
「あ、はい、ありがとうございます」
佐海くんの面持ちは先程よりは明るく見えたので、とりあえずこれで大丈夫か、と安堵した。ひとまず一件落着だろう。
正直に言えば、何も思わないわけではなかった。佐海くんは面持ちにまだ子供らしさがあるし、仮に髪の毛を結うだとか、化粧をするだとか、そういうことをきちんとしてしまえば、それはそれで、女子学生らしい姿になることは容易に想像がついた。俺は彼のことを好いているので、少しばかり色眼鏡で見ているかもしれないけれど。かなり恥ずかしそうにしていたのを見るに、下手なことは口に出すべきではなかった気もしていて、改めて、何もなくてよかったとため息をついた。
切り分けたお菓子と用意したお茶を食堂に置いて、ひとまず仕事に戻らなければと執務室に入ると、そこには見覚えのある後ろ姿があった。
「あれ、佐海くん」
「わ! あ、す、すいません、勝手に」
「いや、大丈夫……カステラは? 食べてないの」
「ああ、えっと、もらいます、けど、その前に」
お礼を言っときたくて。そう切り出す佐海くんは、先程みたいに頬を赤らめている。
「さっき、気を遣ってああ言ってくれたんですよね。本当に、助かりました。ありがとうございます」
「いやいや、大したことはしてないよ」
よかったね、大事にならなくて。そう言えば、まあ、文化祭に来ちまえばバレちゃうんですけど、と困ったように笑っていた。それに関しては否定ができないので、そうかもね、と返すことにする。
「でもなあ佐海くん」
「はい」
「俺的にはやっぱり、頂けないと思うよ」
「あ、え、っと、さっきの格好ですか」
「そう」
あはは、そりゃあそうでしょう、気持ち悪いですよ、と佐海くんは言った。気の所為じゃないかもしれないが、少しだけ表情がぎこちなくなってしまっている。そういうつもりはないので、そうじゃなくてね、とあっさり否定してやると、へ? と間抜けな声をあげてこちらを向いた。
「人気者になっちゃいそうだからね」
「……はあ」
「勿体ないな、いろんな人に見られちゃうんだもんなあ」
「そりゃあ、文化祭だし」
「まあ、そうなんだけど」
かわいかったから、できることなら見せたくないんだよ。
そう言って佐海くんの頭をぽんぽんと撫でる。ひどく顔が熱い。我ながら恥ずかしいことを口にしてしまった気がする。誤魔化しの効かないこの場で、ちらりと佐海くんの方を見てみれば、それはもう顔が茹だったように赤くなっていた。何言ってるんですか、指揮官さん、それもありえないでしょ、とあれこれ言ってくる姿を目の前にして、どうしようもなく愛しく感じてしまう。嘘じゃないって、といって抱きしめると、許しちゃいそうだから、やめてください、とくぐもった声が聞こえた。
11月 18, 2019
「うわあっ」
寮内の一部屋へと入ろうとした途端、中から突如として放たれた大きな声に驚いて扉の外へうっかり逃げてしまう。すると、し、指揮官さん!? と佐海くんの驚いたような声が中から聞こえてきた。入っても平気か聞くと、歯切れ悪く答える側で、いいじゃん! 指揮官さんにも見てもらいなよ、と倫理くんの声も聞こえてきて、似合ってるから大丈夫、それはそれで問題だろ、とあれやこれやと会話が次々と飛び交った。どうやら中にいるのは一年生らしい。
「本当に入って平気?」
「ああ、えっと、まあ、平気です」
「ごめん、すぐ出るから……わあ」
中に入れば、女制服を身に着けた佐海くんが他の子に囲まれて、どうにも居たたまれないような面持ちでそこに立っていた。
「文化祭で着るの?」
「本当は良くん、着る予定なかったんですけど、一着余って勿体ないからって押し付けられちゃったみたいで……」
「本当は嫌だったんですけど、断りきれなかったんです」
「いいじゃん、ボクだってやったよ? 灰被り」
「全っ然、よくない」
当の佐海くんは本当に嫌みたいで、短い制服のスカートを握りしめていた。何より一人で試着してしまおうと思っていたところ、続々とこの部屋に人が集まってしまい、この有様らしい。実に災難な話である。佐海くんの為にも用事を済ませて部屋を出てあげよう、と思っていると、指揮官サンはどう思う? と尋ねられた。
「え、何が」
「何がって、佐海ちゃんの女装だよ! 似合ってるとか似合ってないとかあるでしょ」
「えっ、ああ……」
「指揮官さん、その、無理しなくていいですから……おい北村!」
「ええー、そこは佐海ちゃん的にも気になるところじゃないの?」
「なっ、ばっ」
「あはは、佐海くん、顔真っ赤だね」
光希くんに追い打ちをかけられた佐海くんは、完全に口を閉ざしてしまっていた。光希くんのそれは悪気がないから、正直たちが悪いのだ。だから佐海くんは、それをわかった上で何も言えなくなってしまったのだろう。完全にこの場の収集がつかなくなっているのは目に見えてわかることなので、いい加減に切り口を見いださなければならない。するとそこに、遠くから頼城くんが大きな声で霧谷くんを呼ぶ声が響いてきた。う、と酷く嫌そうな顔をした霧谷くんは、渋々といった様子で扉の前に向かっていく。
「紫暮にまで見られたら、多分、もっと面倒くさくなる」
指揮官サン、あとはなんとかして。そう言って扉の先へ向かっていくのを見送って、はてどうしたものかと考える。ひとまず佐海くんが着替えられるように誘導してやらねばならない。丁度話も途切れているのでそのまま着替えることを提案してやれば、ほっとしたように、そうさせてもらいます、と佐海くんは言った。倫理くんはつまらなそうにしていたけど、これ以上は佐海くんが少し可哀想だと思ったので、先程頂いたお菓子で勘弁頂くことにする。
「それじゃあ佐海くん、俺たち先に出てるから」
「あ、はい、ありがとうございます」
佐海くんの面持ちは先程よりは明るく見えたので、とりあえずこれで大丈夫か、と安堵した。ひとまず一件落着だろう。
正直に言えば、何も思わないわけではなかった。佐海くんは面持ちにまだ子供らしさがあるし、仮に髪の毛を結うだとか、化粧をするだとか、そういうことをきちんとしてしまえば、それはそれで、女子学生らしい姿になることは容易に想像がついた。俺は彼のことを好いているので、少しばかり色眼鏡で見ているかもしれないけれど。かなり恥ずかしそうにしていたのを見るに、下手なことは口に出すべきではなかった気もしていて、改めて、何もなくてよかったとため息をついた。
切り分けたお菓子と用意したお茶を食堂に置いて、ひとまず仕事に戻らなければと執務室に入ると、そこには見覚えのある後ろ姿があった。
「あれ、佐海くん」
「わ! あ、す、すいません、勝手に」
「いや、大丈夫……カステラは? 食べてないの」
「ああ、えっと、もらいます、けど、その前に」
お礼を言っときたくて。そう切り出す佐海くんは、先程みたいに頬を赤らめている。
「さっき、気を遣ってああ言ってくれたんですよね。本当に、助かりました。ありがとうございます」
「いやいや、大したことはしてないよ」
よかったね、大事にならなくて。そう言えば、まあ、文化祭に来ちまえばバレちゃうんですけど、と困ったように笑っていた。それに関しては否定ができないので、そうかもね、と返すことにする。
「でもなあ佐海くん」
「はい」
「俺的にはやっぱり、頂けないと思うよ」
「あ、え、っと、さっきの格好ですか」
「そう」
あはは、そりゃあそうでしょう、気持ち悪いですよ、と佐海くんは言った。気の所為じゃないかもしれないが、少しだけ表情がぎこちなくなってしまっている。そういうつもりはないので、そうじゃなくてね、とあっさり否定してやると、へ? と間抜けな声をあげてこちらを向いた。
「人気者になっちゃいそうだからね」
「……はあ」
「勿体ないな、いろんな人に見られちゃうんだもんなあ」
「そりゃあ、文化祭だし」
「まあ、そうなんだけど」
かわいかったから、できることなら見せたくないんだよ。
そう言って佐海くんの頭をぽんぽんと撫でる。ひどく顔が熱い。我ながら恥ずかしいことを口にしてしまった気がする。誤魔化しの効かないこの場で、ちらりと佐海くんの方を見てみれば、それはもう顔が茹だったように赤くなっていた。何言ってるんですか、指揮官さん、それもありえないでしょ、とあれこれ言ってくる姿を目の前にして、どうしようもなく愛しく感じてしまう。嘘じゃないって、といって抱きしめると、許しちゃいそうだから、やめてください、とくぐもった声が聞こえた。
11月 18, 2019
タン、と最後のキーを押したところで、画面のものが保存されているところをきっちりと確認した。その瞬間、全身から力が抜けていくような思いがする。終わった。長い戦いだった。
ここ最近の俺は兎にも角にも忙しさを極めていた。ALIVEから次々送られてくる文書に目を通してはデータを作り、また送られてきてはデータを作りこちらから送信する、それが永遠に続けられたかと思いきや、今度は神ヶ原さんの方から、指揮官さあん、と、それはもう、情けない様子の神ヶ原さんが、折り入って頼みがあるのですが、と言いながらもってきた片付けきれていない書類に一緒になって判を押し続け、また送られてきた文書にひたすら目を通した。更に今週は高頻度でイーターが出現ときた。イーターが出現して実際に戦うのは俺自身ではないけれど、指揮官の俺は彼らの前では指揮官としてきちんとした大人でならなければなかったし、何より彼らを守る責務があった。働かない頭をどうにか動かして、彼らの姿を見守った。兎にも角にも、気を抜く瞬間などなかったのだ。あったとしても、深夜に少しだけ仮眠を取る時くらいだったように思う。
もう寝よう。何も考えられない。風呂に入る元気もない。
着替えもせず仕事着のまま近くのソファへ横たわる。ありがたいことに執務室にはソファがあって、そこのソファに横たわっていても誰も咎めはしなかった。もしかしたら誰かが自分をきちんとベッドへと運ぶ可能性があるけれど、今の自分は身体を動かすことがもはや困難になっていた為、情けない話だがこちらにとっては非常に好都合だった。歳下の、しかも高校生に大の大人がベッドまでおぶられるなんてあまりに恥ずかしい話だが、正直そんなことは言っていられなかった。とにかく眠いのだ。どうしようもない。
コンコン、と控えめな物音がした。扉をノックする音だ。まどろみの中でぼんやりとした意識がわずかながら残っていた俺は、目をつむりながら、力なくはあい、と返事をした。すると、がちゃりと音を立てながら、指揮官さん、と凛とした声が室内に響く。
「さかいくん……?」
「あ、もしかして、起こしちゃいました? すみません、タイミング悪くって」
「んん、いいよ。なにかあった?」
「いえ、あの、神ヶ原さんから、指揮官さんがものすごくお疲れだって聞いて」
それで、ココアを入れてきたんですけど。そういって目の前の机に置かれたココアからは優しい甘い匂いがした。前みたいにまたマシュマロを入れたんですよ、とにこにこしながら彼は言った。
「飲んでもいい?」
「もちろん! 指揮官さんの為に作ったんですから」
「あはは、ありがとう」
温かい湯気がのぼるマグカップに手を伸ばし、そのままココアを口にすれば甘い味が口の中に広がった。佐海くんの作ったココアは一等美味しかったが、今日のはいつも以上に身にしみてしまうようなじんわりとした感覚をよぎらせた。やっぱり美味しいな、と口にしたら、照れ笑いをしながら、ありがとうございますと零した。
「指揮官さん」
「ん?」
「俺、指揮官さんには元気でいてほしいので」
無理して倒れたりしないでくださいね。佐海くんは、俺の服の裾を小さく掴んでそう零した。うつむきがちの顔は少しだけ不安そうで、瞳がゆらゆらと彷徨っている。伏した瞼から生えたまつ毛がふるりと震えて、数度まばたきを繰り返した。それを黙って見つめていると、指揮官さん? と不安そうな顔がそのまま持ち上がる。なんだか無性に抱きしめたくなって、ココアを机に置いた後、佐海くんのことをそっと抱き寄せると、佐海くんもおずおずと手を回してくれた。佐海くんは優しいね、と言ってやると、指揮官さんだからですよ、と恥ずかしさを隠すように顔を埋めてしまう。そっか。そう返せば、返事の代わりに、きゅう、と少しだけ力が込められた気がした。
11月 16, 2019
ここ最近の俺は兎にも角にも忙しさを極めていた。ALIVEから次々送られてくる文書に目を通してはデータを作り、また送られてきてはデータを作りこちらから送信する、それが永遠に続けられたかと思いきや、今度は神ヶ原さんの方から、指揮官さあん、と、それはもう、情けない様子の神ヶ原さんが、折り入って頼みがあるのですが、と言いながらもってきた片付けきれていない書類に一緒になって判を押し続け、また送られてきた文書にひたすら目を通した。更に今週は高頻度でイーターが出現ときた。イーターが出現して実際に戦うのは俺自身ではないけれど、指揮官の俺は彼らの前では指揮官としてきちんとした大人でならなければなかったし、何より彼らを守る責務があった。働かない頭をどうにか動かして、彼らの姿を見守った。兎にも角にも、気を抜く瞬間などなかったのだ。あったとしても、深夜に少しだけ仮眠を取る時くらいだったように思う。
もう寝よう。何も考えられない。風呂に入る元気もない。
着替えもせず仕事着のまま近くのソファへ横たわる。ありがたいことに執務室にはソファがあって、そこのソファに横たわっていても誰も咎めはしなかった。もしかしたら誰かが自分をきちんとベッドへと運ぶ可能性があるけれど、今の自分は身体を動かすことがもはや困難になっていた為、情けない話だがこちらにとっては非常に好都合だった。歳下の、しかも高校生に大の大人がベッドまでおぶられるなんてあまりに恥ずかしい話だが、正直そんなことは言っていられなかった。とにかく眠いのだ。どうしようもない。
コンコン、と控えめな物音がした。扉をノックする音だ。まどろみの中でぼんやりとした意識がわずかながら残っていた俺は、目をつむりながら、力なくはあい、と返事をした。すると、がちゃりと音を立てながら、指揮官さん、と凛とした声が室内に響く。
「さかいくん……?」
「あ、もしかして、起こしちゃいました? すみません、タイミング悪くって」
「んん、いいよ。なにかあった?」
「いえ、あの、神ヶ原さんから、指揮官さんがものすごくお疲れだって聞いて」
それで、ココアを入れてきたんですけど。そういって目の前の机に置かれたココアからは優しい甘い匂いがした。前みたいにまたマシュマロを入れたんですよ、とにこにこしながら彼は言った。
「飲んでもいい?」
「もちろん! 指揮官さんの為に作ったんですから」
「あはは、ありがとう」
温かい湯気がのぼるマグカップに手を伸ばし、そのままココアを口にすれば甘い味が口の中に広がった。佐海くんの作ったココアは一等美味しかったが、今日のはいつも以上に身にしみてしまうようなじんわりとした感覚をよぎらせた。やっぱり美味しいな、と口にしたら、照れ笑いをしながら、ありがとうございますと零した。
「指揮官さん」
「ん?」
「俺、指揮官さんには元気でいてほしいので」
無理して倒れたりしないでくださいね。佐海くんは、俺の服の裾を小さく掴んでそう零した。うつむきがちの顔は少しだけ不安そうで、瞳がゆらゆらと彷徨っている。伏した瞼から生えたまつ毛がふるりと震えて、数度まばたきを繰り返した。それを黙って見つめていると、指揮官さん? と不安そうな顔がそのまま持ち上がる。なんだか無性に抱きしめたくなって、ココアを机に置いた後、佐海くんのことをそっと抱き寄せると、佐海くんもおずおずと手を回してくれた。佐海くんは優しいね、と言ってやると、指揮官さんだからですよ、と恥ずかしさを隠すように顔を埋めてしまう。そっか。そう返せば、返事の代わりに、きゅう、と少しだけ力が込められた気がした。
11月 16, 2019